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株式会社MKSパートナーズ
パートナー
柴田英利氏

(プロフィール)
1995年東京大学工学部を卒業。同年東海旅客鉄道(JR東海)に入社。収益向上、経費削減を目的としたAIソフトウエアの開発を担当後、在来線の運行にかかわる包括的なリエンジニアリングプロジェクトに携わる。99年米国ハーバードビジネススクールに留学。2001年MBAを取得。同年シュローダー・ベンチャーズ(現在のMKSコンサルティング)に参画。02年MKSパートナーズへ出向。さまざまな案件のストラクチャリング業務・再生支援などに従事する。現在、ベネックスの監査役・福助の取締役・ヴォークストレーディングの取締役などを努める。32歳 

日本企業の潜在的な力を引き出す触媒としての役割を発揮したい

「このままではいけない」がきっかけで、体系的に勉強することになったのでしょうか。
 JR東海では社内コンサルタント的な立場にいたので、少しは経営の意思決定を垣間見ることができました。さまざまプロジェクトに携わる度に、勉強を余儀なくされました。大学でもっと勉強しておけば良かったと後悔したものです。その場その場で知識を吸収するのも良かったのですが、もっと体系だった勉強ができる環境に身を置きたいと思いました。そこで、オーソドックスな選択としてMBAの取得を考えたのです。

 ハーバードビジネススクールに決めたのも、勉強に最適な環境が整っていることと、合格したなかで最も苦労しそうだという予感があったからです。実際に行ってみたらとにかく大変でした。特に悩まされたのは、語学の壁と大人数のディスカッションの場で正しいかどうかも分からない自分の考えを主張するということ。もう、ほぼ2年間苦労の連続でしたね。

世界中から選ばれた人材が集うハーバードビジネススクールの思想は、「リーダーとしての自覚を促し、責任感・意思決定力を育成する」というものですね。この思想によってどう磨かれていったのでしょうか。

ハーバードビジネススクールで学んだことは3点あります。

 第1に、米国のカルチャー。いい意味で奢りの価値観というか。「君たちは将来のリーダーとして相応しい自覚と資質を身に付けなければならない」と。志を高く持つことにすがすがしさを覚えました。

 第2に、どんな環境でもやっていけるという自信。これだけ優秀な連中と戦っても生き残ることができたからです。こんな経験は人生ではそう何度もないはずだと思いました。世界に名だたる学者や経営者とも触れ合うことができました。凄いなと思う面もあるものの、ビッグネームであっても1人の人間だと認識しました。これから先、より大きな困難に遭遇しても何とかやっていけるのではという自信に近いものがわいてきました。

 そして第3が、意思決定の手法。緻密な分析を重ねてロジックを導くというのはもちろん。さらに、不確実な環境下における最適な意思決定手法を感覚的に理解できるようになったのです。

留学当時の日本は経済閉塞の真っ只中。ビジネススクールでは日本に関心を寄せる雰囲気は微塵もなかったのですか。

 留学したのは1999年からです。ビジネススクールでは日本が無視されていた頃です。米国、中国、インドしか注目を浴びない。寂しかったですね。「日本はまだ面白い」ということをとにかくアピールしたかったのです。また、そういうことができるポジションに早く就きたいと思ったものでした。

 ビジネススクールの2年目の後半に入った頃、日本企業の多くは、人間の体に例えると、筋肉は付けてきたもののそれが有効に機能していないという状態なのではないかと思い始めました。ストレッチをして筋肉をほぐす必要がある。そこで、潜在的な力を掘り起こす触媒になりたいと考えたのです。在籍していた会社はとても好きでしたが、元の会社に復帰してしまうと居心地のよさに安住してしまう自分が容易に想像できたので、思い切って荒波の中に飛び出すことにしました。

転身先は、日本のプライベート・エクイティー・ファームの先駆けとしてさまざまな企業再生や発展途上にある企業の支援に取り組んでいましたね。

 触媒的な役割を果たすためには、プリンシパルとコンサルタントや投資銀行のようなアドバイザー的な立場のどちらが良いかを考えました。とはいえ、アドバイスするだけではつまらない。ちょうどその時、プライベート・エクイティーの仕事を知ったのです。自分の運用する資金を会社に投資、経験豊かな経営陣と同じグラウンドに立って一緒にビジネスを動かしていく。これなら触媒としての役割を担えるのではないかと思いました。

 MKSに転職してからの4年間は、もうローラーコースターライドそのものでした。入社後すぐに参加したプロジェクトでは、投資先の経営幹部と連日連夜のミーティング。1年後にようやく再生を終えて次の発展段階に入ったところで、今度は投資家から資金を募りファンドを組成する立場で奔走。2003年には投資先の発掘に深く関わりました。その後、投資を実行、新会社の発足を取締役として支援してきました。このときは前回の経験を生かして少しは効率よく仕事をすることができたでしょうか。最近は、ようやく落ち着いた生活を送ることができるようになりました。

どんなハードワークでも、難易度が高くても、人間はそれをクリアできると信じているとか。

 ビジネススクールで学んだことはすぐ忘れてしまいます。一つひとつの具体的なスキルも含めてです。残っているのは、意思決定の手法というか思考プロセスだけです。投資先の社長が判断するための手助けを自分がどれだけできるのか。リーダーシップが強い経営者が必ずしも合理的というわけではありません。私の役割は、さまざまな場面で下された判断の良し悪しを検証することです。それには、ビジネススクールで2年間毎日、意思決定のシミュレーションをしてきた蓄積が本当に役立っています。

 MBA自体には、あまり価値はないと思います。MBAを持っていることは、自分のなかでの努力の証にしかすぎません。ただし、あれほど大変な思いをしたことを思い出すと、新しい問題に取り組む際、少し勇気が湧いてきます。

今までの4年間が第1フェーズとの位置付け。次の段階では、触媒としての力量がさらに問われることになりそうですね。

 この4年は、1つの会社の再生や1つの会社のガバナンス強化といった、比較的単一のアプローチによって解決できる課題が中心でした。次は、もっと手掛ける領域を広げていきたいのです。企業グループや、業界全体の競争力を向上させるにはどうすればよいかといった大きなことを考えたいものです。

 そして、10年後にはさまざまなものから自由であれる存在になりたい。慣習、経済的な事情、人間関係、思考過程などの制約なしで、もっともっと自由に色々なことを考えて実行していきたい。もちろん、自由にやるためには自分自身にそれに応じた実績、信頼、知見を築かなければいけません。志は高く持ち続けたいですね。

今回のキーワード「経営者の責務」

  2005年1月20日付けの日本経済新聞夕刊に柴田氏の古巣、JR東海の葛西敬之会長のコメントが掲載されていた。「遠くで山の頂に登るのと同じで、地図はなくとも前に進んで行けば必ず道筋は見えてくる。その見え方によって一番いい方法を選ぶのが経営者の責務だと思います」。経営者に地図が与えられるなどということはおそらくないだろう。だからこそ、経営者は道筋を見抜く経験や知識を持ち合わせているかどうかが問われる。不確実ななかでも、適切な意思決定をしなければならないからだ。シミュレーションの効果は、ここでこそ生きてくる。

(取材・文/袖山俊夫)
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